小さい子お子さんに話しかけるとき、「猫なで声」とまではいかないまでも、普段大人に話しかけるのとは違った話し方をしてしまいませんか。
日本語を習っているという外国の方に出会うと、その方はちょっとお辞儀しながら、なんとなく優しい調子で話しかけてくる印象があります。
日本人の話し方が彼らにはそのように映っているのだなと感じますが、いかがでしょうか。
そして仕事で英語ネイティブの方と話すときも「相手が話すように話さなきゃ」という気持ちがつい働いてしまうのです。
身振り手振りも使ってはっきり言わなきゃとか、明るく、声の大きい相手であれば、こちらも明るく大きい声で話さなきゃとか。
でもそんなことを続けていると、相手とのコミュニケーションがだんだんしんどくなってくるのです。
だいぶ前に難民キャンプで仕事していたとき、毎日、朝の早い時間から
「ヘイっ!!コーイチィっ!元気ぃーっ!!??」
みたいにテンションの高い声をみんなからかけられていました。
そして相手のテンションを下げてしまっては悪いかなと
「ハーイ、トム!、うん、元気だよぉ〜!あんたは元気かーい!?」
なんてテンションの高い自分をつい装ってしまう僕がいました。
顔には出さないけれど、そんな会話のあとにはドッと疲れてしまう。
二日酔いの朝に、「さあ今日も元気出していこうぜ!」みたいに声をかけられてうんざりしてしまう心境に似ています。

あるとき、仕事で日本の方と知り合ったのですが
その方は英語がとても流暢な上、水を得た魚のように、ふるまいや話し方まで欧米の方のようでした。
僕はその方を見たときから
「僕は海外には向かないんじゃないか」
「僕は海外ではやっていけないんじゃないか」
という劣等感を抱えていた時期が長かったです。
僕はその方のようにアメリカやヨーロッパの方らしい話し方ができなかったから。
相手といい関係を築きたい
相手に受け入れてもらいたい
自分が信頼できる人間であることを示したい
だから相手の話し方やコミュニケーションの調子に合わせなければならない。
そんな呪縛のようなものを「解いていい」とはっきり悟ったのが映画『ラスト・サムライ』を観たときです。
トム・クルーズさんと主役を演じられていた渡辺謙さんの話し方は、英語を使いながらも「自分」が滲み出ていたような気がしたのです。
思い返しますと、外国語を使う場面であっても、時間が経つにつれその人の普段の話し方がにじみ出てくるものです。
静かに語る人は英語でも静かに語り、ひょうきんな方は外国語になってもひょうきんな話し方が、ぶっきらぼうな人はぶっきらぼうさが出る。
それでいいんじゃないかと。
そう思うようになって以来、早口でキンキン頭が痛くなるようなテンションでまくし立ててくる相手でも
僕の自然な状態を出すことを意識することで、次第に気負うことなくコミュニケーションができるようになった気がします。
もちろん、シャイで口下手だから無口を通すとか、「こんちくしょう!」と思っているのにニコニコしてごまかすような「自分らしさ」では信頼を得られません。
でも相手のコミュニケーションの調子や態度には過剰に同調しなくていいと思うのです。
それはちょうど、カラオケでむちゃくちゃ上手い人の次に順番がまわってきたとき、そのプレッシャーに向き合う心境に似ています。
前の人がうまかったから「僕も!」と気負ったって急にうまくなったりするものではありません。
自分の声で、自分らしく、自分の好きな曲を気持ちよく歌う。
僕がバラードを歌うと、いつもクスクス笑われてしまうことは百も承知しているのですが…それでいいのです
