同じ職場に個人主義・集団主義がいるとどうなるか

前回の投稿で、個人主義的と集団主義の違いについて述べました。

グローバル社会では様々な価値観、様々な仕事のやり方、考え方を持つ人と一緒に働くことが多くなります。今回は個人主義的な価値観をもつ人と、集団主義的な価値観をもつ人が同じ職場にいる場合、お互いをどのように受け止めるかについて考察します。

コミュニケーションの仕方の違い

直接的・明快なコミュニケーション vs. 間接的・暗示的なコミュニケーション

個人主義的な性格の強い社会では直接的、明快なコミュニケーションが一般的です。簡潔でわかりやすく、明確に自分の考えていることを言葉で表現するのです。あいまいさや相手の誤解を招くような話し方は悪いコミュニケーションとされます。

はっきりと自分の意図、意見を言うことで相手との見解の違い、立場の違いが明らかになり、紛争に発展することもあります。しかし、個人主義的な文化では紛争さえお互いの理解を深め、よりよい解決策に導くものとしてむしろ前向きに捉えられるのです。

その一方、集団的社会では間接的、あいまいなコミュニケーションをよく使います。そこではグループ内での調和、つまりグループで争いなく、仲良くやっていくことを重んじる社会です。したがって、はっきりと思うことを言うことで相手との紛争を招くようなやり取りをしません。

そのため、ある人が言っていることが必ずしもその人の意図を表しているとは限らないのです。集団主義社会では、コミュニケーションの受け手が、話し手の表情や身振り、声のトーンなどから意図を汲み取っていかなければならないのです。

沈黙の意味、捉え方

集団主義社会では沈黙や、相手との会話の中でポーズを置く傾向があります。相手が話終えると、すぐに反応するのではなく、数秒ですがポーズを置くのです。

日本でも無意識に行われていると思いますが、このポーズを置くことで相手の言ったことを咀嚼したり、次に何を言うかを考えるのです。また文化によってはこのポーズを置くことで、相手が言ったことに対する敬意を表すこともあります。

また沈黙は何も言いたくない、何も言うことがないときに使うのはもちろんですが、あえて沈黙し相手とのコミュニケーションに間を置くことで「No」を意味することもあります。

一方、個人主義社会でのコミュニケーションでは間を嫌う傾向があります。ハリウッドなどの映画などでもよく見かけるシーンですが、相手の話が終わるとすぐに反応を返します。場合によっては相手の話が終わるか終わらないかのタイミングで相手が言葉を発することさえあるほどです。

ミーティングなどでは地位や職位などに関係なく、そこに出席している者全員が発言することが当たり前の社会です。個人主義というのはそれぞれのユニークさが認められる社会ですから、個人個人がそれぞれ違う考え方、物の見方があって当然と考えられています。それを一同に会する場面で臆することなく披露することが求められます。

個人主義社会では沈黙は「会話が死んでいる」と捉えられることもあります。とにかく誰かが間髪なく話をつないでいくことが大事です。

個人主義、集団主義の人達が同じ職場にいると。。。

個人主義社会の人にとって、集団主義社会の人とのコミュニケーションは苦痛を伴います。言っていることをそのまま鵜呑みにできないからです。

例えば、個人主義社会のある人が集団主義社会から来た上司に新規事業の提案をしたとします。そしてその上司が「是非、検討させてもらう」と返したとしましょう。

集団主義社会の社員であれば、その上司の関心なさそうな表情から「あ、これはNoという意味なのかな」と解釈するでしょう。

しかし、相手の発言を額面通りに、言葉通りに解釈する個人主義社会の部下は「お、検討してもらえるんだ。よーし、次にまた質問された場合にそなえて、もう少し下準備をしておこう」となってしまうのです。

個人主義社会では、自分の思っていることを明確に、はっきり言うことが当然な社会ですから、その文化から来た部下はこの上司のことを「嘘つき」「信用できない」「自分の考えを表明できない無能なボス」などというレッテルを貼ることでしょう。

また個人主義の社員と集団主義の社員が集まるミーティングの場面を想像してみましょう。個人主義社会の社員はどんどん発言し、しかも矢継ぎ早に、間をはさむことなく意見がどんどん出してきます。一方、集団主義社会の社員はどこで発言してよいかわからず、ただただ呆然と無言で佇むばかりです。

そんな集団主義社会の社員を見て、個人主義社会の同僚は

「こいつら、全く自分の意見がないんだな」
「こいつら、ずっと黙っている。何も考えていないんだな」
「誰だ、こんな何も言わないやつを会議に呼んだのは?」
「こいつら、一緒に問題解決する気が全くないんだな」

と、見下すと考えて間違いありません。

一方、間髪おかず議論に夢中になっている個人主義社会の同僚を見て、集団主義社会の社員は

「こいつら、人の話をちゃんと聞いているのか?」
「さっき誰かが聞いた質問をまた質問くりかえし聞いている。。ちゃんと人の話聞いてから話せよ」
「俺が俺がと、こちつら、本当に見苦しいな」
「これまでの背景について、こいつら何も知らないでしゃべっているだけじゃないか」

と、こちらも相手に対していい印象を抱かないでしょう。

人間関係について

頭で信用する vs. 心で信用する

個人主義社会では、お互いの利害が一致した場合に相手とのビジネスの関係を結びます。相手との関係を築くのは、こちらにとっても相手にとってもビジネス上の利益があるからです。

そして一旦その相互利益が損なわれたり、利害が一致しなくなった場合、あっさりとビジネス関係を解消し新たなパートナーを求めて歩くようになります。そこに後ろめたさなどは残らないのです。

また新しいパートナーを探したり、従業員を新たに雇用する場合、相手のスキルや能力、これまでの経験、業績がこちらの求めに合っているかどうかが重要な判断指標になります。

一方、集団主義的な社会では、ビジネス上の関係を構築するのに多くの時間をかけます。相手を人間として、感情的なレベルで好きになれるかどうか、感情的なレベルで相手のことが信頼できると感じられるまでビジネス上の取引は行いません。

ビジネスとはいえ、結局はお互いをどれだけ人間としてよく知っているか、信頼しているかどうかが重要なのです。ですから接待の場を設けたり、仕事が終わってから一緒に食事や飲みに出かけることは大いに意義があると考えられています。

従業員を新たに雇用する場合、これまでの業績やスキルなども重要ですが、加えて重視されるのが「仲良くやっていけそうかどうか」「会社内で問題を起こさないかどうか」といった点です。集団主義社会とは調和が何よりも大事ですので、どれだけ有能であってもいわゆるトラブルメーカーは避ける傾向があるのです。

また集団主義社会では「内と外」をはっきりと分けます。新しく人を入れる際は特に念入りに相手のことを注意深く、警戒して見る傾向があります。そして新しいパートナーよりも旧知の関係にある会社、取引先との付き合いを優先します。

集団主義社会では縁故採用もよく行われます。グループ、あるいは会社内での調和を保ち、そして最も信用できるのは身内が一番と考えるからです。

個人主義、集団主義の人達が同じ職場にいると。。。

集団主義社会で働く個人主義の社員にとって、仕事外のプライベートの時間に会社の人との飲み会につきあわされるのは苦痛以外の何ものでもありません。

そして縁故主義や「内」へのえこひいきが横行し、プライベートと仕事をしっかり分けられない集団主義社会は、プロ意識に欠ける人間の集団と考えるのです。

一方、集団主義社会の社員にとって、個人主義社会の同僚を信用してよいかどうかを測りかねるでしょう。一緒に飲みに行くこともなく、相手の素の部分、プライベートな部分が見えてこないからです。

また、お互いの利害が一致しなくなれば相手との関係がプッツリと切れてしまうことも、にわかに信じがたいことかもしれません。例えば個人主義社会では誰かが職場を去るとなっても送別会などはありませんし、ましてや離職後に前にいた会社の人と個人的な付き合いを継続する人も稀です。

(参考文献)